未来塾通信72



人間にはいかんともしがたい能力の差が歴然とある



■前回は『ビリギャル本』を批判しましたが、実はそんなことに時間を費やしたくはなかったのです。わざわざ時間を割いて詐欺本を批判するほど、私も暇ではありません。ただ、乗りかかった船です。今回は塾教師としての実感にもとづいて坪田氏を批判することにします。この種の本は2匹目のドジョウどころか、3匹目4匹目を狙って、手を替え品を替え登場します。その背景には、著者と出版社(KADOKAWA)の商売上の戦略とは別に、意外と根の深い問題があるからです。

 

この本の紹介には次のように書かれています。

「1300人以上の子ども達を個別指導した経験から、『地頭の悪い子などいない。どの子も、可能性に満ちている』『ダメな人間なんて、いないんです。ダメな指導者がいるだけなんです。でも、ダメな指導者も、ちょっとした気づきで、変われるのです』という著者による、子どもや部下のやる気を引き出す心理学テクニックも満載」と。

 

私はまず素朴に、「自分にこのような本が書けるだろうか」と問いかけてみました。答えは断固としてノーです。こういった本を書くには、全くの別人格(良心なき阿呆)にならなければ不可能です。その理由を述べてみましょう。

 

第一に、自分の経験的な実感を裏切るようなことは書けません。長年塾をやってきましたが、「どの教科もできない子がいる」という厳然たる事実を無視して、塾教師として生きていく覚悟を固めることはできません。できない子を教えることほど大変なことはないのですから。

 

「できない子」というお前の決めつけこそが子供をできなくさせているのだ、などという平等主義に毒された紋切型の観念論に付き合う気はありません。親御さんも自分のこどもを教えれば分かると思います。塾は勉強を挟んで親子が向き合うときの徒労感・絶望感を肩代わりしているとも言えるのです。

 

例えばこういう場面を想像して下さい。あなたが陸上競技のコーチだとします。100メートル競走で将来オリンピックに出たいという目標を持った中学生がやってきます。最初に何をしますか。100メートルのタイムを計るでしょう。仮に16秒かかったとします。あなたが有能なコーチなら、それがどれくらいのレベルかわかるはずです。その時、あなたはどのような言葉をかけますか。

 

おそらく、こどもの気持ちに配慮しながらも、中学生のときに100メートルを16秒で走っていて、オリンピックに出場した人は今まで一人もいないという事実を告げるでしょう。それとも、夢を持つことは素晴らしい、明日からオリンピック目指して頑張ろうと激励するでしょうか。

 

後者は一見子供を尊重しているように見えて、実は子供を傷つけることになります。なぜなら、本来適性のないことにいつまでも子供を縛りつけ、健全なあきらめ感情を弱さの表れだとして否定し、ついには自立のチャンスを奪うことになるからです。

 

さて、二人で毎日猛練習に明け暮れて1年が経ったとしましょう。おそらく、100メートルを15秒台で走れるようにはなっていると思います。そんなある日、数人の中学生が同じグラウンドで練習するためにやってきます。彼らは皆100メートルを11秒台で走る選手です。軽くアップしながら、二人の傍を駆け抜けて行きます。そのスピードに圧倒されるはずです。私は中学・高校と陸上部の短距離の選手だったので、この感覚がよくわかります。陸上競技はリレーを別にすれば個人競技です。自分自身の素質や能力に向き合わざるを得ないという点で、勉強に似ています。

 

もう一つエピソードを紹介しましょう。家を建てていたとき、大工のナベさんと午後3時の休憩をとっていました。その時、塾の扉を開けて高校生のT君が入ってきました。ちょうどお茶をしていたので、いっしょにどうかと勧めました。T君は、ごく自然にテーブルに座り、10分ほど私たちの世間話に加わりました。その後教室へ入っていきました。その時のナベさんとの会話です。

 

ナベさん「先生、あの子は頭がいいやろう」

私「わかる?」

ナベさん「そら分かるわ。ワシもいろいろ見てきたけん。」

私「あの子はこの前の模試で、全県で3番」

ナベさん「そうやろな。やっぱモノが違うわ。見たら分かるで」

 

私がここで言いたいことは、ナベさんのような健全な世間知の持ち主であれば、頭が良いかどうかくらいのことはすぐにわかるということです。社会で問われる能力の基本的な部分は、広い意味の「言語能力」です。おそらくナベさんはT君の話しぶりでそれを感じ取ったのです。

 

それに対して、どの教科も同じようにできない子供も、すぐにわかります。塾で3回ほど一緒に勉強して、簡単なテストをすれば判断できます。そういうとき、私は深呼吸して覚悟を決めます。世間の注目を浴びることがなくても、100メートルを16秒で走る子供を、15秒で走れるように指導することにも意味があるのです。

 

子供を見ていると、分からなかった問題が分かったときには、何らかの感動がともなっているのがわかります。小さな感動は、人々との間に「通路」らしきものが見えたことを意味します。自分と世界が親しくつながったのと同じです。それは、自分も他の人と同じように、人間の仲間として生きていいのだという安心と喜びに支えられています。同時に自分自身がこの世界に生きている意味がつかめたことを意味します。決して大げさなことを言っているのではありません。私がブログで述べてきたように、「普遍的な感情」につながる萌芽を胚胎しているのですから。

 

私が何を言いたいか、もうおわかりでしょう。頭のいい子も悪い子も、断じてこの世に生きなければなりません。坪田氏が向き合っているのは、一度に塾の費用をポンと百数十万円出せる家庭の子供たちです。ビリギャルはその中の一人に過ぎません。すなわち、厳しい現実に直面することを避けて、十分間に合う時間の中で、実質1教科入試の慶応大学に合格したというだけのことです。『ビリギャル本』は、世間の注目を浴びたというよりも、世間の注目を浴びるように画策したマーケティングの産物です。

 

私は30年以上にわたって、勉強ができない子供たちの切なさに向き合ってきました。なかなか成績が上がらないという理由で子供を退塾させる親御さんもいます。そういうときは、かなり落ち込みますが、親御さんを責める気にはなれません。私にできることなど、たかが知れているのですから。

 

そんな私から見ると、『地頭の悪い子などいない。どの子も、可能性に満ちている』という言い方は、子供が置かれている具体的な環境や条件を無視した、あまりに非現実的な認識です。坪田氏は自分が塾で出会う生徒を子供一般と考えて「どの子も」などと一般化して見せます。これだけで、まともな思考力がないことがわかります。

 

さらに、『ダメな人間なんて、いないんです。ダメな指導者がいるだけなんです』などといった空疎で抽象的なキャッチコピーが続きます。彼が子供とまともに向き合い、悪戦苦闘した経験を持っていれば、こういった無神経で粗雑な一般論は決して吐けないはずです。このブログで何度も言っているように、一見取るに足らない些細なことがらの中にこそ、社会のゆがみや問題があらわれているからです。後半の『ダメな指導者がいるだけなんです』は、坪田氏自身のことを言っているのでしょうが・・・。

 

 

次に、この本が中高生や保護者にどのような影響を与えるかを考えてみましょう。厳しい現実と一度も対峙したことのない、プチ裕福なおバカさんに、一時的に夢を見させる効果はあるかもしれませんが、社会に何ら生産的なものをもたらしません。賢い親なら、健全なあきらめの感情を持つことがいかに大事か説いて聞かせるでしょう。いや、これは私が偉そうに言うことではありません。現にほとんどの子供は自分のマイナスをマイナスとして積極的に引き受けて、社会の中で生きて行く術を身につけるものです。

 

子供が無意識のうちに持っている現実と折り合う力を無視して、親の見栄や勝手な願望のために『ビリギャル本』を与えれば、子供たちは果てしない自分探しの旅に出て、着地点を見失います。その結果、多くの子供たちの学力低下と意欲低下が起こります。さらに、社会全体に対しては、職能スキルが伝達されないという結果をもたらすのです。

 

まともな大人であれば、空疎なキャッチコピーに踊らされることなく、人間には限界がある、という健全なあきらめの感情を前提に、将来の職業なりイメージを固めるための道を開いてやるべきです。長くなりました。もうやめにします。ここまで読んで下さった皆さん、ありがとうございました。