未来塾通信69



贈る言葉 ・ 中学3年生の皆さんへ



■昨日は中学3年生の最後の授業でした。生徒に食べてもらおうと、臼杵の「さかいや」さんに桜餅を予約して、朝一で買いに行きました。

午後7時から最後の授業を淡々とこなし、残り30分になったところで、桜餅と妻が立ててくれたお抹茶を出しました。
 
私の塾では、ハチマキを巻き、こぶしを突き上げて、がんばるぞーと雄叫びを上げたりしません。「絶対受かるぞ!という気持ちが最後は勝敗を分けるんだ、分かったな!」などという大げさなアドバイスもしません。
 

私は、万が一失敗してもそこから必ず道は開けるのだ、ということを話します。「僕は大学受験に失敗したから、自分の人生を見つめ直すことができた。もし失敗していなかったら、塾の教師になって君たちと出会うこともなかった。だから失敗は、より幸福になるための次へのステップかもしれない、胸を張って、人生を先へ先へと進もう」と。
 

締めくくりは、毎年そのとき心に浮かんだことを話します。自分に言い聞かせるように、感謝の気持ちを込めて話します。


以下は最後の授業で中学3年生にした話です。
 

― イギリスのEU離脱、トランプ政権の誕生で、世界は新しい局面に入りました。つまりこれまで当然とされていた考え方が揺らぎ始めたのです。僕たちの社会はどちらに転ぶかわからない。アメーバのように、一方に重心が片寄ればそれに引きずられてずるずると、なし崩し的に悪い方へ向かうかもしれません。もちろん人々が立ちあがって逆の方向へ舵を切ることだって考えられます。
 

僕たちは、明日も今日と同じ日が続くと考えますが、それを保証するものは何一つありません。日本はこれから高齢化が進み、人口が減少していきます。これまでの枠組みで考えていては、生き延びることができないかもしれません。僕は君たちになんとか生き延びてほしいのです。だから、学歴よりも手に職をつけることだ、などと言いたいのではありません。学歴も資格も肩書も役に立たない世の中になるでしょう。一体どうすればいいのでしょうか。
 

僕は次のように考えています。現実をしっかり見て、考える人だけが生き残るのだ、と。肩書で仕事をしてきた人は、社会のお荷物になるだけです。世の中の大人は自分にとって都合のいい現実しか見ていません。そして、あり得たかもしれない現実、あるべき社会を考えることができません。立派な肩書を持っている人ほど、ひとりよがりで視野が狭いのです。

 

具体的に話しましょう。世の中には色々な職業がありますね。皆さんはあと数年もすれば、自分で生活の糧を得なければなりません。大変そうですね。でも、君たちは今、曇りのない目で現実をしっかりみつめる能力を持っています。学校の成績とは無関係に、人生で一番正直に、有利か不利かを抜きにして現実を見ることができる時期を生きています。以下のことをしっかり心に刻んで下さい。そうすれば大丈夫です。

 

まず、15歳で、あるいは18歳の段階で、自分が何に向いているかはわからないということ。むしろ、就職する前に、自分の向き不向きを決めつけてしまうことは無謀です。僕は今でも塾の教師という仕事が自分に向いているかどうか分かりません。
 

それは、お前がさえない塾の教師だからそう思うんだろう、という考え方も一理ありますね。世の中には、夢を実現させてそれを職業にしている人もいるではないか、と言いたいのでしょう。わかります。でも僕もそれなりに年をとって、色々な経験を積んできました。だから少しだけ話を聞いて下さい。
 

僕が塾を始めた30年ほど前から、「夢」と「職業」を結びつけて考える傾向が強くなりました。そして、今や「夢」は、「将来就きたい職業」そのものを意味する言葉になってしまいました。
 

たとえば「プロ野球選手になりたい」「世界で活躍するサッカー選手になりたい」「医者になりたい」「弁護士になりたい」「ファッションデザイナーになりたい」というように。
 

それを後押しするように「夢を持ちなさい」「夢のない人生ほど退屈な人生はない」「夢があってこそ人生は輝く」「自分だけの夢に向かって努力しなさい」というキャッチフレーズが叫ばれ、そのことを疑問視する声は聞こえて来ません。
 

子どもの頃の僕の「夢」は、大福もちを腹一杯食べたい、裸になってウエディングケーキに飛び込みたい(甘党でしたから)、鳥になって空を飛びたいというものでした。職業と全く結びついていません。笑わないでください。つまり、職業と結びつかないものこそが夢だったのです。

そんなたわいない夢ですから、夢なんかなくても子ども時代は楽しかった。そもそも子どもは、今の一瞬一瞬を生きている、あるがままの存在です。だから、僕に言わせれば、お仕着せの「夢」にとらわれた子どもはかけがえのない今という時間を台無しにしている可能性があるのです。
 

僕は塾の教師をしているので、全科目で優秀な成績を残す生徒もいれば、すべての科目ができない生徒もいるという現実に向き合ってきました。この現実を見ることなく、いつまでも青い鳥を探すように仕向けているのが、塾産業です。その実態は、「学力向上のため」「子どもの将来のため」という一言で、うやむやにされています。
 

勘違いしないで下さい。僕は勉強ができない生徒に「あきらめろ」と言っているのではありません。逆です。人間は色々だ、だからこそ職業や肩書で人間を評価する必要はない、そんなことをしていると人生はやせ細り、いくばくかの金銭と虚栄心を満足させることと引き換えに、むなしい人生だけが残ることになる、と言いたいのです。
 

それだけではありません。職業にもとづく肩書信仰は、特定の職業についている人たちへの差別感情を生みます。だれかを見下し差別することによって、自分のプライドを保つなんて、あまりに悲しいことです。君たちは、そういった人生を歩んではなりません。
 

夢はある仕事について数年して振り返って笑えるようなものの方がいいのです。夢やあこがれは、それに到達することによってではなく、届かないことや、笑い話になることによって人間を成長させるものです。
 

自分の望む職業につけなかったら自分の人生は失敗だと考えるのは間違いです。次のように考えてみてはどうでしょうか。「職業」や「職種」で考えるのではなく「職場」で考えるのです。自分の気に入った職場で、気の合う仲間といっしょに働くことができれば、与えられた役割をこなすという単純なことでも責任感と達成感をもたらすからです。 
 

最後にこれだけは覚えておいて下さい。職業は君の個性を生かしたり、夢を実現したりするためにあるのではないということです。社会が必要としているからあるのです。

たとえば、これは前にも言いましたが、新幹線がストップしている深夜にトンネルの点検をする仕事は社会が必要としているからあるのです。あるいはゴミの収集・処理はどうでしょう。
 

皆さんの中に将来の夢の職業として深夜のトンネル点検やゴミの収集・処理を思い描いた人はいるでしょうか。こういった職業は、それをする人間がいないと社会が成り立たないから職業として存在しているのです。
 

そして世の中の大部分の仕事はそういったものです。地味な仕事です。誰からも注目されず、スポットライトが当たることもありません。新幹線にコンクリートの塊が落ちて大事故になったときに初めて注目されます。そして責任を追及されます。でも一方で、僕たちが安心して新幹線を利用できていたのは、陰で点検している人がいたからだという事実に気づくのです。

 

大人になるということは、こういった気づきを一つ一つ積み上げていくということです。僕が現政権を批判するのは、二世三世の政治家が、こういった人々の生活の重さを理解せず、国民が納めた税金を湯水のごとく自分たちの都合のいいように使っているからです。
 

話が長くなりました。いよいよお別れです。今日の話をもし覚えていてくれたら、僕はうれしいです。長い間、雨の日も、冬の寒い日も最後まで通って来てくれてありがとう。どうか立派な大人になって下さい。さようなら、中学3年生の皆さん。