未来塾通信58



私の国語の授業−「文章を正確に読むために」



■年末の忙しい時期になりました。大学入試センター試験も目前です。受験生は追い込みに余念がないことでしょう。この時期、多くの塾では一人でも多くの生徒を獲得しようと考えて、「最小の努力で最大の効果」「短期間で驚くほど成績アップ」などというキャッチコピーを流します。健康食品やダイエット食品のキャッチコピーと大した違いはありません。でも、広告の片隅に小さな字で書いていますね。「効能には個人差があります」と。

まともな塾教師であれば、まさにこの「個人差」に向き合っているはずですから、こんなキャッチコピーの嘘はすぐに見抜けます。もっとも、あるルールに従えば入試問題が簡単に解けるかのように生徒を錯覚させ、その結果「短期間で驚くほど」利益を出すことを「経営方針」にしている塾なら別でしょう。個別指導塾の最大手、明光義塾はその「経営方針」が理解され、2015年度のブラック企業大賞を授与されました。 

 今回は「文章を読む技術」のイロハのイに問題を絞って述べてみたいと思います。私は普段は英語と数学を教えていますが、こどもたちの言語の運用能力(数学もある意味で数式ということばの運用能力です)そのものの低下を痛感することが多くなりました。これは、ことによると運用能力以前の、ことばに対する向き合い方に地滑り的な崩落現象が起きているせいではないかと考えたのです。それを確かめるために、普段はしていない国語の授業を夏期と冬期の講習会ですることに決めました。 

 入試問題を解く前に、そもそも「文章を読むとは、どういうことなのか」を生徒に考えてもらおうと思いました。それで、これまで遭遇した意味不明の文章や、論理構造が破綻しているため何を言いたいのかわからない文章などを書きとめている私のノートから問題を作りました。中学1年生から高校3年生までの生徒全員にやってもらいましたが、私の解説も含めてそれぞれの授業で2時間をフルに使いました。 

 その問題は以下の通りです。 

 <問題> 以下の文章は、米国のある大学のグループがまとめた理論集を、日本人2名の研究者が翻訳した際に書いた「訳者序」の冒頭部分です。「訳者序」とは、本の最初に書かれている「はじめに」や「まえがき」にあたるものです。

 「1冊の本は、その本が出版された時代の文化的所産である。また、それぞれの本は、その時代の歴史的課題を背負って生まれるといえよう。1980年代の幕開けの年に出版されたこの本も、その歴史的必然性を担って生まれてきた。・・・」

  <問> この文章を読んで、あなたが気付いたこと、考えたことを書きなさい。どんなことでもかまいません。小説や評論文のようなある程度まとまりのあるものではなく、わずか3文を読んで感想を書くことなど無理だと思った人もいるでしょう。しかし、それぞれの文をよく読んで下さい。(但し、400字詰め原稿用紙1枚以上は書くこと。)

 生徒の答案と私の解説をすべて文字にすれば膨大な量になるので、要点だけを述べます。生徒の反応で一番多かったのは、400字詰め原稿用紙1枚以上も書けない、というものでした。答案の内容には大きく分けて3つのパターンがありました。

 パターン1:難しいことばが使われていて、意味がよくわからないというもの。

 パターン2:翻訳した人たちは、頭の良い人たちで、この本を重要な本だと考えているというもの。

 パターン3:本は出版された時代の文化的所産であり、歴史的課題を背負って生まれたものであるから、これから直面する課題を予想したり、過去の出来事の原因を究明したりするのに役立つというもの。 

 私の予想どおりでした。この文章を批判する答案はありませんでした。そこで、この文章から導かれる私の解釈を示しました。以下がその要点です。

 1:第1文は「1冊の本は」で始めていますが、これは一般論を展開するときに使う表現です。英語で言えばA bookですね。不定冠詞のaは、同じ種類のものが他にもたくさんあることを前提に、その中のどれでもいい一つを取りだすときに使います。どんな本でもいいから、1冊の本をイメージして下さいということです。これは翻訳書です。訳者はこの本の価値を日本の研究者に提供すべきだと考えて翻訳したはずです。ならば、「1冊の本は」で始まる一般論は不要のはずです。「この本は」で始めるべきです。 

 2:第1文の後半では、本は「文化的所産である」と述べています。しかし、「文化」とは何でしょうか。辞書を引いてみて下さい。「文化」とは、人間の精神活動によって生み出されたものですね。こういう場合には「文化」ではないもの、すなわち人間の精神活動以外のものによって生み出されたものを考えると意味がはっきりしてきます。鉱物はどうでしょう。魚や爬虫類は文化ですか。違いますね。自然が生み出したものは「文化的所産である」とは言えません。では人間の精神活動は何によって支えられていますか。そう、ことばですね。文化=ことばだと言ってもいいくらいです。日本語が地球上から消滅した時が、日本文化が消滅する時です。本にはことばが書かれてあるのですから「文化的所産である」のは当然のことです。なぜこんな当たり前のことを書くのでしょうか。「1冊の本は」という一般論で始めたために、言わずもがなのことを書いてしまったのです。 

 3:第2文の「それぞれの本は」の意味は、第1文の「1冊の本は」と同じです。一般論の繰り返しで、主張が焦点を結ばず宙に浮いています。つまり、この書き方だとすべての本が「その時代の歴史的課題を背負って生まれる」ことになります。では「盆栽の育て方」「麻雀必勝法」「犬のしつけ方」「背徳の人妻」「1か月で10キロやせるには」などという題名の本は、どのような「歴史的課題を背負って」いるのでしょうか。

 4:第2文は「といえよう。」で終わっています。これは評論文などでよくつかわれる表現ですが、皆さんはこういったエラソーな言い方はしないようにして下さい。「と言える」と断定して下さい。ほら、断定すると不安になってくるでしょう。この不安を避けるための言葉が「といえよう」です。要するに文章を書く責任主体をぼかしているのですね。断定すればそれを立証する責任が生じます。その責任と向き合うためには、一般論ではなく、具体的な事実をもとに思考しなければなりません。そうすれば不安を感じなくて済むのです。

 5:いよいよ第3文です。疲れましたね。もう少しの辛抱です。この文の前半に「この本も」と書かれています。この「も」が曲者です。つまり、すべての本と同じく「この本も」と言っているわけですから、結局すべての本は、ということになります。訳者たちの緊張感のなさが、この「も」を生みだしたのです。仮にここを「この本は」としていたらどうでしょう。「歴史的必然性を担って生まれてきた。」と続くわけですから、他の本はそうではないということになります。一般論を述べてきた中で「この本は」と言えば、具体論になってきます。おおざっぱな一般論から具体論へ降りてくることは難しい、と覚えて下さい。

 6:以上みてきたように、この文章は一般論として、すべての本は「出版された時代の文化的所産」であり、「歴史的課題を背負って生まれる」のであり、「歴史的必然性を担って」いることになります。注意すべきは、この訳者たちは「歴史的課題」と「歴史的必然性」を同じ意味だと考えていることです。しかし、「必然性」とは何でしょうか。「必ずそうなるときまっている性質」のことです。例えば太陽は東から昇ります。これは必然です。このように必ずそうなるときまっているはずの事柄が、なぜ「課題」になるのでしょうか。太陽が東に昇るのは、そうなるように努力すべき「課題」なのでしょうか。要するに、必然であるものは課題にはなり得ないのです。皆さんは不合格になることが決まっている試験のために努力できますか。わずかでも合格の可能性があるからこそ努力するのでしょう。そうなるに決まっているもの、それ以外ではあり得ないものを努力の目的とすることはできません。努力によって変えられるからこそ、課題となるのです。 

 以上述べたことから、「訳者序」は全く無駄であるばかりか、この本の価値を貶めている可能性があります。

 
 以上が、わずか3文をどう読むかについての私の授業です。もちろん実際にはもっとかみ砕いたやさしいことばを使っています。脱線話で具体例を挙げたり比喩を使ったりしながら、文章を読むことは同時に批判することになるはずだ、と訴えました。これ以外の読み方があったらぜひ教えていただきたいと思います。