未来塾通信46


私はどんな塾教師をめざし、どんな塾教師になったか

■父の急逝という思いがけない事情と、生活の必要からやむを得ず始めた塾教師だったが、気がつけばあっという間に30年が過ぎた。私は塾を始めて間もなく、二つのことを守ろうと決めた。一つは、地域のこどもを大事にすること。もう一つは、他人を雇って分教室を作る、いわゆる経営者にはならない、ということだった。


 この業界のレベルを考えれば、多店舗展開によるスケールメリットを生かし、そこそこの利潤を上げる企業を作ることは容易だったかもしれない。しかし、自分の人生の貴重な時間を何によって埋めていくかと考えたとき、企業経営者という選択肢は自然と消えていった。多店舗展開している塾の経営者で、尊敬できる魅力的な人物に出会ったことが金輪際なかったということもある。バランスシートとにらめっこをするだけの、教えることをしない塾教師など、私のイメージの中にはなかった。要するに、塾を初期投資が少なくてすむビジネスモデルの一つとして考えることができなかったということである。

 だから、世界で一番自由な学校といわれた英国の『サマーヒル』を訪ねた時、A・S・ニイルのような一人の教師がいる間だけ存続する、等身大の私塾こそが自分にはふさわしいと感じた。もっとも、日本で同じような自由学校を作るのは私の手には余ることだった。この学校にこどもを入学させた TBSの元番組プロデューサーの本を読んだが、東大を頂点とするヒエラルキーのカウンターカルチャーとしてこどもを利用しただけの、体のいい子捨てだと思った。賢い親なら、せめて中学卒業まではこどもとともに暮らすことを選択するだろう。そういうわけで、私は生活空間を少し広げるくらいの気持ちで塾棟を建て、そこでこどもたちに本質的で、時代に左右されない不易の知識を伝えようと考えた。

 以前通信にも書いたが、塾に夢を託すほど私は夢想家ではないし、だからといって、単に生活費を稼ぐための場所だと割り切ることもできなかった。どんな職業であれ、働いていくばくかの収入を得るということは、社会とつながるということである。そのつながりを見下したり、軽んじたりすることはできない。それは社会そのものを、ひいては人間そのものを軽んじることになるからだ。だから、銀行口座の単なる数字としての金額ではなく、生徒が月謝袋に入れて持ってきてくれるお金が私の生活を支えているのだ、という実感が何より重要だと考えた。

 塾教師という、なんらの保証もない、まったく不安定な仕事を選択し、どこに漂着するともわからない日々を送りながら、私は迷いと不安と焦燥から自由になろうともがくより、その中に身を置くことこそが、貧しいながら自分の思想=生を形作っていくのに欠かせないことだと気がついた。そして、どんな仕事であれ、それが仕事につきまとう本質的な困難さだと納得するようになった。

 仕事である以上、期待される通り相場というものがある。それを無視するわけにはいかない。何より、懸命に働いて授業料を納めてくれる親の期待にはこたえなければならない。生徒の成績を上げて志望校に合格させるというささやかな仕事を抜きにしては、塾は存立できないのだ。塾が30年続いてきた主な理由は、私の考えに共鳴してくれる親が多かったからではなく、田舎の個人塾でありながら東大合格者も出し、九大合格者は80名に達しようとしていること。高校入試の合格率は99%だということを口コミで知って、こどもを通わせてくれる親がいたからだと思う。(もっとも、合格に私が関与できるのはせいぜい20%くらいであり、本人が持っている生得的な素質と家庭環境、そして一日の大部分を過ごす学校での活動がベースにあることはいうまでもない)そして何より、脱線の多い私の授業を我慢して聞いてくれた生徒のおかげであり、生徒との思い出が、私を塾教師という仕事に押しとどめてくれたのだと思う。

 下世話な世界の中に生活の糧を求めることはプライドが許さないと思う人は、この仕事には向いていない。しかし私は逆に、「たかが塾教師のくせに」という本音が聞こえてくる世界の中で生きることこそが、自分の思想を練り上げる格好の機会ではないかと考えた。ときにこの仕事から足を洗いたいという衝動にかられながら、一方でその中にとどまる思想的根拠を懸命に探した30年であった。

 幸か不幸か人生は選択の連続である。しかも、人は二つの生を同時に生きることはできない。生きるという営みの中で、人は焦り、考えあぐね、迷う。しかし、生きるということはそもそも、そういうことではないのか。
たとえば、ある人と約束をし、家の戸締りをし、火の後始末もして、約束の時間に遅れないように出かけるとする。ところが、家を出てしばらくして、心に不安がきざす。

「火を消したのは間違いない。しかし、鍵はちゃんとかけてきただろうか」

戻って確かめようかと思うが、それをすれば約束の時間に間に合わない。不安は迷いに変わる。
「確かに鍵はかけたはずだ。自分の記憶を信じて、このまま約束の場所に向かうことにしよう。いや、人の記憶ほどあてにならないものはない。約束の時間を気にして、注意がおろそかになっていたかもしれない。かけたつもりがうっかり忘れていたということもある。やっぱりもどってたしかめるべきではないだろうか・・・。」

迷いは焦燥に変わる。こういう状況が続けば人は耐えられなくなる。しかし、こういった引き裂かれた状態を経験することがなければ、人はおよそ考えることをせず、目的地に向かってまっしぐらに歩くだけだろう。人が「考える」ということは、この不安や焦燥とともに一定の時間を過ごすことを意味する。それは、いかにうまく目的地に着くかといった単純で実利的な「方法論」に飛びつくことでもなければ、約束より戸締りのほうが大事だからと直ちに取って返す「決断力」に軍配をあげることでもない。

 なるほど、迷いと焦燥の現場で考えあぐねた結果、いずれにせよ、人は結局、爪先を目的地か家路に向けざるを得ない。しかしそこまでの長い迷いと不安と焦燥をどれほどの分量で、どれほどの苦慮を通して潜り抜けてきたかということが、その人固有の思想=生の価値を決める重要な尺度になるのだと思う。

 とまれ、これから先の塾業界は経営の統廃合を繰り返し、差別化と付加価値を高めることを目指しはするものの、結局はセブンイレブンとローソンの違いくらいしか生み出さないだろう。グローバリズムの中で生き残ろうとすれば、そうならざるを得ない。

塾教師としての力量(知識を伝達するだけではなく、こどもたちが生きる将来の社会に対する洞察力も含む)を高めることをせず、DVDを見せるための中継基地になっている塾は、ウェブを通じてコンテンツが個人に配信されるようになれば、一挙に存在価値をなくすだろう。現にそうなっている。

にもかかわらず、価値判断の座標軸が未形成の親たちは、これからの時代は情報弱者では生き残れないとばかりに奔走し、「ローソン」と「セブンイレブン」の情報を収集し、その差異に一喜一憂する。そして、結局は情報弱者の地位にとどまる。なぜなら、グローバル社会における情報が誰によって作られ、どのような媒体を通じて流され、何を目的としているのかが分かっていないからだ。これでは情報の質を見極めることなどできない。同様に、公教育も、数値化・数量化できる分野だけを比較し、競争させることで、日本中のこどもたちを均質化する方向に向かっている。

経済学が、様々な文化や歴史や慣習を捨象し、都合のよい数値だけを取り上げて人間を均質化しモデル化することで成り立っているのと同様である。それは、こどもたちから精神のローカルカラーを奪い、そこから生まれる生命力を奪い、点数に象徴される線型の序列性の上に位置づけることだけを目的とするようになる。その結果、どこかから与えられる「価値」について、受動的に反応する以外に振舞いようがないという、いわば魂の植民地化状態が進んでいく。そのなかで自由の価値が声高に叫ばれようと、それは、たかだか市場に供給される単一の新商品を皆で受け入れ、新しいものに対する受身の反応速度を競い合うといった程度のものでしかなくなるのだ。その先に、「幸福に生きるための哲学」があるのだろうか。

 私にできることは、自分のやっていることを過大評価せず、むしろ狭い範囲に限局することで、淡々と、時には脱線話を交えながら日々の授業に励むことだと思う。30年前に、私が塾教師としてめざした地点と、たどり着いた地点はそんなにずれてはいなかったと思う。

 分野は違うけれど、塾のありかた、すなわち私の生き方に通じることを的確に述べ、実践している人がいる。京都・祇園で老舗の板前割烹を営む森川裕之氏(52)である。ユネスコの無形文化遺産にも登録され、「和食」をもっと世界に広げよう、という動きが官民で広がっている中で、和食は世界を目指すべきではないという勇気ある発言を続けている。氏は、グローバル化の波にのみ込まれては、独自性が失われて元も子もなくなるというのだ。以下はそのインタビュー記事である。
                       
                2013年12月4日の朝日新聞『異議あり』より

 京料理の世界でも、最近は海外に打って出ようという話が盛んだそうですね。

「先進的で意欲的な人が海外と交流しようという話なら結構なことだと思いますよ。でも本体の日本料理店はグローバル化とは無縁であるべきで、ぶれたらあきません。私は話が逆やと思うんです」

― 逆というのは。

「和食は極東の郷土料理でいいと思う。和服は絶対、グローバルなスタンダードにはなりませんね。そやから、よろしいんです。日本料理も西洋料理と体系が違って互換性がない。プラグが違うから残ってきたんです。グローバル化したら残るもんも残らなくなるのではと、心配です」「ミシュランに意見を言ったのもそう。西洋料理と日本料理は成り立ちも目的も違う。同じ尺度で測って星で格付けするのはやめてください、とお願いしました」

― だけど西洋も日本も、料理は料理ですよね。

「フランス料理は絶対料理です。もともと権力者がかき集めた肉や野菜を長時間、煮込んで濃厚なうまみを抽出したもの。臭みを消すために香辛料を使う。絶対的な美味を追求する。そういう歴史と文化が背景にあります」「しかし日本料理は出汁の力を借り、素材が持つ本来のうまみを引き出す料理なんです。海や山で新鮮なもんが取れますから。四季の変化に応じて味付けも微妙に変える。時に山椒やゆずの香りを加え、味わいを引き立てて風味を豊かにする。つまり相対的なお料理なんです」

 そんな西洋料理が支配する食の世界に和食が割り込めれば、うれしい話ですね。

「私はフランスやイタリアの料理を批判しているのと違いますよ。あれは完成された立派な料理です。ただおいしいという価値観が和食と根本的に違うんです。向こうはメートル法、こっちは尺貫法でやってるんですから」「お料理というのはその土地の水、素材、空気に根付いたもの。本来地産地消であるべきです。魚も海から取れた瞬間から鮮度が落ちますから。うちも昔はハワイのホテルに店を出してました。ほんまもんを海外に持っていくのは費用対効果で無理やと悟ったんです」

 海外の日本食レストランは和食のいわばショールーム。日本文化への理解が広がるのではありませんか。

「そこが違うと私は思います。ショールームに入ってもらうには敷居を低くしますね。郷に入ったら郷に従えで、どうしても向こう流になってしまう。カルフォルニアロールが出てきたみたいに。でも、それが和食やと思ってもろたら困ります。まったく違うもんですから」「たとえば鯛も、わさびとしょうゆで食べるもんでしょう。これで十分完成された料理なんです。それが最近はキウイのソースがけなんていうのが出てきた。プロバンス風なんとかが格好良くて、エビフライやトンカツは古臭いという感覚もおかしい」

― ただ、新しい挑戦も時には必要ではありませんか。

「百の伝統を繰り返し習得した末に、初めて新しいもんが一つ自然と生まれる。それが前衛でしょう。しかし、いまあるのは時代の共感を得ようとするあまりに、単なる迎合で終わっていませんか」「東京一極集中の波に料理界が飲み込まれなかったのも、京都人がお山の大将でいたからです。ある意味、排他的だったからこそ京料理が残った。日本料理も、いい意味で独善性を保つべきです」

― 和食の売込みには食品の大手企業もたくさん加わっています。人気が高まれば日本の食材や調味料が売れる期待があるからですね。

「そうでしょうな。でも、それは商売の話でしょう。それを文化を残す話と混同するから違和感が出てくるんです。ユネスコの無形文化遺産への登録にしても、そこは区別すべきでしょう」

― 国民に自らの食文化に目を向けてもらうのが、無形文化遺産登録の趣旨ですが。

「私もまったく同じ意見です。しかし、たとえば富士山にしても世界遺産に登録された途端、人気が沸騰しました。結局、私ら日本人はユネスコという権威にながされがちだということでしょう。むしろ学校での食育の授業を増やしたほうが意義があると思う」「私が一番心配しているのは個人経営の食べ物屋がどんどん消えている現実です。お昼にチェーンのカレー屋と牛丼屋しかない世界になったら、日本人の味覚はどんどん細っていきます」「明治維新以降、京都人は中央の権威を斜めに見て、反骨の気概を大事にしてきました。官民一緒にまとまって、なんていうのは苦手だったはずなんですが」

― どうすべきでしょう。

「外国から日本に来てもらえばいい。元のままを食べていただいて、おいしいと言わはるかどうかという話。日本には1億以上の人口があるんです。日本で日本人のお客さんに、ほんまもんを食べてもろて、おいしいと言っていただくのが日本料理屋の本望であるべきです。それで十分やっていけますから」