未来塾通信41


あまりにも浅薄な朝日新聞『天声人語』

■朝日新聞はこの前の大戦中、大本営発表をそのまま垂れ流し、戦争に加担した過去を持つ。その事実を痛切に反省することで、戦後、再出発したはずではなかったのか。しかし、今や、産経や読売新聞のような情報弱者の原発ブラボー新聞との距離の置き方でかろうじて読者を維持しているに過ぎない。その意味では、マーケットの淘汰圧を受け、より巧妙にアリバイ工作(原発やTPPに反対する意見も掲載していますというような)をしているともいえる。

 新聞記事といえばいかにも客観性を担保しているような文体で書かれているが、私はいつの頃からか、その背後にいる記者の人間性に興味を持つようになった。記者の下す価値判断、知性、記事になるまでに受けたであろう社内の検閲、果ては記者が無意識のうちに選択している政治的立場、利害関係までが垣間見えるようになった。そして、より深い本質的な問題意識を持ち、より長いタイムスパンでものごとを考えることのできる有能な記者であればあるほど、現在の朝日新聞社にとどまることは困難だろうと想像する。ジャーナリストとしての問題意識が、新聞社の利害と衝突し、それを超えるだろうから。

 さて本題に入ろう。朝日新聞の『天声人語』といえば、社内で最も筆力のある記者が書いているのではなかったのか。私は『天声人語』の熱心な読者ではまったくないが、時々目にするこのコラムの内容にも、上記の朝日新聞社の体質ともいうべきものが現れているように思える。物事の表面だけを慌しくなでてまわるヘッドラインセンス(見出し感覚)が筆者の中で肥大化し、習い性となっているのだ。論より証拠、具体例を挙げてみる。

                   2013年・2月20日の『天声人語』


 ▼受験シーズンが大詰になってきた。今年の国公立大の志望者には「安全・地元志向」がより強まっているそうだ。1次試験に当たるあたるセンター試験が難しかったらしく、点数の伸びなかった受験生がやや弱気になっている。そんな分析を、先の本紙記事が伝えていた。

 ▼ なかでも国語は、200点満点で平均が101,04点と過去最低に沈んだ。その「犯人」と目されるのが、批評家小林秀雄の難解な随想である。没後30年の年に、ひとしきり新聞各紙で話題になった。

 ▼筆者も挑戦してみたが、なかなか手ごわい。「鐔(つば)」という題からして凄みがある。刀の鐔をめぐる一文に、語句説明の注が21もつく。これを1問目に「配点50点」でドンと置かれて、焦る気持ちはよくわかる。
 
 ▼小林は、人を酔わせる文句の名人とされる。いたるところで繰り出されるが、たとえば手元の一冊にもこうある。「万人にとっては、時は経つのかも知れないが、私達めいめいは、蟇口(がまぐち)でも落とすような具合に時を紛失する。紛失する上手下手が即ち時そのものだ」(随想「秋」から)

 ▼一方で、絢爛華麗な殺し文句をちりばめるためには論理性に頓着しないところがある。名高い「批評の神様」も受験生には貧乏神だったかもしれない。

 ▼蛇足めくが、右の引用文はこう続く。「そして、どうやら上手に失った過去とは、上手に得る未来の事らしい」。分かるような分からぬような。ともあれ過ぎた試験は悔やまず未来を上手につかむよう、受験生にエールを送る。  

『天声人語』の筆者が小林秀雄をどのように評価しているか。その箇所を抜書きしてみる。

  1:人を酔わせる文句の名人

  2:絢爛華麗な殺し文句をちりばめるためには論理性に頓着しないところがある

  3:名高い「批評の神様」

  4:「分かるような分からぬような」文を書く

  小林に対する1〜4の評価のどれもが、手垢のついた表面的なものでしかない。よくもこれだけ浅薄な評価が下せるものである。おそらく筆者はジャーナリスティックな問題の表面だけを切り取って、大衆受けを狙ったコメントが書けるように自らをトレーニングしたのであろう。高速事務処理能力と社内の人間見取り図をいち早く作成できる、「立場」に敏感な人間なのかもしれない。


  小林秀雄は日本が生んだ稀有な思想家である。私が小林の著作を本格的に読み始めたのは、大学受験に失敗して浪人をしていたときのことである。親からのわずかな仕送りで新潮社版「小林秀雄全集」を買い始めた。そして今日まで折に触れて読み返している。知識や情報を仕入れるための読書ではない。自分の時間を切り売りして金銭に変える方法を学ぶ読書でもない。自分の人生の時間を何によって埋めていくかという問題に正面からぶつかっていた私は(若者はいつの時代でもこの問題にぶつかる。ぶつからないのは若者ではなく、人生を小才の利いた青写真通りに乗り切れると考えている大人である)小林秀雄を必要としたのである。「人はどのように生きるべきか」という問題を、実存としての人間という足場を一歩も踏み外さずに考え抜いた、つまり自らの生の追求そのものに寄り添う言葉を不断に創造する生き方が、私をつかんで離さなかったのだ。


  私が最初に衝撃を受けた『Xへの手紙』から一部を抜粋しよう。これが書かれたのは満州事変の翌年、五・一五事件の起きた年である。プロレタリア作家たちの転向が相次ぎ、政治状況が激動していた時代である。引用は ― 以下である。

 ― いずれにせよ俺は恋愛が馬鹿馬鹿しいような口吻を漏らす人間には、青年にしろ老人にしろ同じような子供らしさを感ずる。いずれ今日の社会の書割は恋愛劇には適さない。だが俺が気になる問題は、適すにしろ適しないにしろ恋愛というものは、幾世紀を通じて社会の機械的なからくりに反逆してきたもう一つの小さな社会ではないのかという点にある。


 ― 俺にはこの言わば人と人との感受性の出会う場所が最も奇妙な場所に見える。たとえ俺にとって、この世に尊敬すべき男や女は一人もいないとしても、彼らの交渉するこの場所だけは、近づきがたい威厳を備えているもののように見える。あえて問題を男と女の関係だけに限るまい、友情とか肉親の間柄とか、およそ心と心との間に見事な橋がかかっているとき、重要なのはこの橋だけではないのだろうか。この橋をはずして人間の感情とは理知とはすべて架空の胸壁ではないのか。人がある好きな男とか女とかを実際上持っていないとき、自分はどういう人間かと考えるのはまったく意味をなさないことではないのか。

 ― 個人主義という思想を俺は信用しない。およその明瞭な思想というものが信用できないように。だが各人がそれぞれの経験に固着した他人には充分に伝えがたい主義を抱いて生きているということは、信じる信じないの問題ではない。個人の現実的な状態だ。

 ― 俺たちは今どこへ行っても政治思想に衝突する。なぜうんざりしないのか。うんざりしてはいけないのか。社会のすみずみまでも行き渡り、誰もこれを疑ってみようとは思わない。ほんの少しでも遠近法を変えて眺めてみたまえ。これが、俺たちの確実に知っている唯一の現実、限りない瑣事と瞬間とから成り立った現実の世界に少しも触れていないことに驚くはずだ。 

  ここで小林は自らの思想的核心を宣言している。以後、その核心が引き寄せる様々な素材、たとえば絵画や音楽を始めとする様々な芸術や歴史や古典や伝統、常識について言葉をつむいでゆく。もちろん、いわゆる安手の保守イデオロギーなどとはまったく無縁である。 戦中、小林は歴史や時間について徹底的に考え抜く。そして客観的な歴史主義や事実の機械的な連鎖が歴史であるとする実証主義に痛撃を加える。

 ― 母親の愛情が何もかもの元なのだ。死んだ子供を、今もなお愛しているからこそ、子供が死んだという事実があるのだと、言えましょう。愛しているからこそ、死んだという事実が、のっぴきならぬ確実なものとなるのであって、死んだ原因を、精しく数え上げたところで、動かしがたい子供の面影が、心中に蘇るわけではない。(中略)死なしたくない子供に死なれたからこそ、母親の心に子供の死の必然なことがこたえるのではないですか。(「歴史と文学」) 


  自分の子供であれ他人の子供であれ、死んだという客観的「事実」は同じである。にもかかわらず、なぜ自分の子供が死ねばこんなにも悲しいのか。この一節には、画期的な認識論的転倒が語られている。子供が死んだという客観的「事実」があるから母親が悲しむのではない。親が、愛していたこどもを深い哀しみによって思いやるからこそ、子供の死という「事実」が浮かび上がるのだ。自分の子供を虐待死させる親に、子供の死という「事実」が浮かび上がることは決してない。さらに1939年に発表された 『ドストエフスキーの生活』の「序」として書かれた「歴史について」という論考の中には次のような記述がある。


 ― 子供が死んだという歴史上の一事件のかけがえのなさを、母親に保証するものは、彼女の悲しみの他はあるまい。どのような場合でも、人間の理知は、物事のかけがえのなさというものについては、なすところをしらないからである。悲しみが深まれば深まるほど、子供の顔は明らかに見えてくる、おそらく生きていた時よりも明らかに。愛児のささやかな遺品を前にして、母親の心に、このとき何が起こるかを仔細に考えれば、そういう日常の経験の裡に、歴史に関する僕らの根本の知恵を読み取るだろう。それは歴史事実に関する根本の認識というよりもむしろ根本の技術だ。そこで、僕らは与えられた歴史事実を見ているのではなく、与えられた史料をきっかけとして、歴史事実を創っているのだから。このような知恵にとって、歴史事実とは客観的なものでもなければ、主観的なものでもない。このような知恵は、認識論的には曖昧だが、行為として、僕らが生きているのと同様に確実である。


  私はこの部分を読んだ時、鳥肌が立ち、同時に、これまで受験勉強を通して学んだ歴史が単なる事実の羅列であり、私が生きていることとは何の関係もないことに気づき愕然としたのを覚えている。 


  小林秀雄は、時代の支配的なイデオロギーに対して、身近な実存の意味を固守しようとした正真正銘の「抵抗者」なのである。もとよりそれは個人主義などという「主義」ではない。彼の表現の随所に見られる逆説的なレトリックは、すべてこの身近な実存者たちの生の意味と価値を固守するというモチーフをいかに伝えるかという渾身の力業から出ている。小林は、『天声人語』氏が言うように「絢爛華麗な殺し文句をちりばめるためには論理性に頓着せず」、「分かるような分からぬような」文を書く人間ではない。私が、『天声人語』氏を、慌しく物事の表面だけを見て、紋切り型の文章をでっちあげる人物だと批判する理由はここにある。時間も歴史も人間の「思い」が作るのだという小林の決定的な認識についてまったく無自覚なのだ。


 ちなみにここで言う、時代の支配的なイデオロギーとは、百八十度転換したかに見える戦前と戦後の両方を含んでいる。つまり、小林の場合、その思想の根拠が、短い時間的スパンで変転するイデオロギーのどちらに与するかといった次元を超える長い射程を持っており、どの時代に生きても同じ発想として出てくるような人間的な深みに根ざしていることを意味する。それは時代の変化に耐える、とても堅固な、強い思想である。

 ことわるまでもないが、彼の「抵抗」の方法は、政治的なものでもなければ社会的なものでもなかった。文化という幅広く息の長い領域に最後まで立てこもることによって、それを果たしたのである。その徹底性は比類がない。また彼が文化に立てこもることによって抵抗を果たしたと言うのは、あれこれの文学作品や芸術作品に対して、一定の「思想的立場」にもとづく批評を行なうことを通してそうしたという意味ではない。およそ「立場」などというものに彼は関心がなかった。彼は文字通りみずからの文体という「身体」を言語空間に投げ出すことによって、その抵抗の正当性を確保しようとしたのである。その独創性もまた比類がない。


 小林秀雄の思想的抵抗は、世界についてのどんな客観的見取り図も与えなかったし、また社会の進歩についてのどんな指針も与えはしなかった。しかし彼の傑出した抗いの姿勢は、いわばひとつの「勇気」の型とも言うべきものを示した。それはいかなる社会状況や時代状況のなかにあっても、動揺せずに守り抜くべき人間的領域があるということを今も私たちに告知し続けているのである。