未来塾通信38


大分合同新聞のコラム「東西南北」について

■表現の自由に対する最大の脅威はもちろん公権力による弾圧であるが、それに劣らず重大かつ深刻なのは、保身と既得権への執着からくる大手マスコミの自己規制である。自己規制している側はおそらくその自覚すらない。3・11以降露呈されたこの国のマスコミ・官僚・御用学者・政治家の感度の鈍さは目を覆いたくなるほどの惨状を呈している。

それを象徴するのが、毎週金曜日の夜、総理官邸前で行なわれている反原発デモの抗議の「声」を、「大きな音だね」と表現した野田首相の発言である。原発事故を起こして国民の生命を危機に陥れたのは、政界・官界・財界・大手マスコミの複合体であったことが白日の下に晒された。デモの参加者はそういった「日本のあり方」全体に向けて抗議しているのだ。国民の9割が「原発ゼロ」を選択している理由もまさにこの点にある。

「決められる政治」を声高に標榜する人間の傲慢さは、10万人を超えるデモの参加者の声を単なる「音」としか感受できない鈍感さと表裏一体であることを忘れてはならない。野田首相が人間としての想像力=倫理を決定的に欠いていることは、福島原発事故の収束を早々と宣言して世界をあきれさせたことに何よりもよく現れている。

フランス革命でバスチーユの牢獄が革命派によって襲撃された日、いつもどおり狩に行っていたルイ16世は、日記に、今日はさしたる獲物がなかったという意味で「何事もなし」と書き付けた。社会の根底が大きく動いているのに、その認識すらなかったのである。

閉鎖的な原子力村の中で利権をむさぼってきた旧体制(アンシャンレジーム)の上層部が最も変化をわかっていない。いや、人々の意識の変化や、社会の根幹が揺らいでいることに無自覚だからこそ、ムラ社会の上層部に上り詰め利権にありつけたというのが真実だろう。民主党および自民党の党首選における議論が何よりもこのことを証明している。畢竟、彼らはルイ16世よりも感度の鈍い「おぼっちゃま」に過ぎない。特に、反原発運動を「集団ヒステリー」だと言った自民党幹事長の石原伸晃氏は、原発問題を問われて、今度は、「私は原子力に関しては素人なのでコメントできない」と返答した。鈍感さと無知の上に無責任が加わったのである。3・11以降、国民の政治的リテラシーが格段に上がったことにも、いまだに気づいていない。

原発事故を経験したにもかかわらず、そこから学ぶことができず、安全神話に逆戻りし、原発利権にしがみつくこの国の上層部を見ていると、あらゆる現象が無意味に、いかなる行為も徒労に思えてくる。そんな折、大分合同新聞のコラム「東西南北」を読み、大手メディアの鈍感さを地方新聞でも見せつけられることとなった。以下全文引用する。


       2012年8月3日、大分合同新聞のコラム「東西南北」


―― 中学3年の娘は、毎週金曜夕に首相官邸で続けられている脱原発デモの映像に嫌悪感を示す。彼女の脳裏には昨年来、「アラブの春」のデモや英国で起こった暴動で、暴徒化した群集の映像が焼きついているようで、「あんなことが日本で起きているのが嫌だ」と。

広辞苑を「デモ」からたどると、次のようになる。「デモ」はデモンストレーションの略で特に示威行進を言う。「示威」は威力を示すこと。「威」とは人をおそれ従わせる勢い・力・品格?。語感からすると、デモには力の誇示が無縁ではないようだ。だが脱原発デモには、幼子を抱いて参加する母親の姿もある。報道で知る限り、暴徒化した様子はなく、「威」は感じられない。そこで娘に「このデモは暴徒化しないと思うよ」と話したが、聞く耳を持たない。

脱原発デモに関して、日本で暮らすエジプト出身の女性が、インターネットの短文投稿サイトに書き込んだ母親との会話が興味深い。エジプト在住の母親は日本留学経験がある政治学者。脱原発デモの様子を伝えると、「顔を隠さずに?」と驚き、「安保闘争以降、日本ではデモをする人は反逆者とみなされ、まともに就職できなくなるという恐怖心を植えつけられた」と解説したという。その脱原発デモを呼び掛けている団体を代表するメンバーに、野田首相が会う意向を固めた。公共の場で行なうデモという手法や脱原発の主張に賛否はあるだろうが、政治的パワーを持たない民衆のデモが政府も無視できない存在になってきたということだろう。エジプトの政治学者の指摘が正しいとすれば、デモに対する日本人の考え方も変わるのだろうか。――

このコラムはいったい誰に何を伝えようとしているのか。真実に肉薄しようとする意志も、そのために言葉を正確に使おうとする緊張感もない。以下具体的に批判してみる。

(1) コラム氏の中学3年生の娘さんは、首相官邸前で続けられている脱原発デモの映像に嫌悪感を示して「あんなことが日本で起きているのが嫌だ」と言ったそうである。この場合の「あんなこと」とは何を指すのだろうか。コラム氏が考えるように、「アラブの春」のデモや英国で起こった暴動で、暴徒化した群集の映像を指すのだろうか。しかし、テレビの映像を見れば、官邸前に暴徒化した群集などいないことはすぐわかる。従って「あんなこと」とは、「暴徒化した群集」を指しているわけではないだろう。

要するに、デモの手法とは関係なく、現体制に抗議する群集そのものに「嫌悪感を示」しているのである。中学3年生の時点ですでに支配層の価値観を見事に内面化した結果、抗議のシュプレヒコールが自分に向けられているように感じたのではないか。だから、コラム氏が「このデモは暴徒化しないと思うよ」と話しても、娘さんは「聞く耳を持たない」のである。

この親にしてこの子ありというべきか。広辞苑を引く暇があるなら、なぜ「このデモは暴徒化しないと思う」のか、その理由を娘さんに話すべきであろう。中学3年生なら、選挙における投票行動と並んで政治的意見を表明する自由(デモの自由もその一つである)は民主主義社会の根幹をなす重要な権利である、というくらいの認識は持っていてもらいたいものだ。コラム氏にとって大分合同新聞社は、ただ単に給料をもらうための職場に過ぎないのだろうか。言論機関に勤める親としての自覚があれば、娘さんに、「行為に訴えられないところでは権利感覚は萎縮し、次第に鈍感になり、ついには苦痛をほとんど苦痛と感じないようになってしまう。」というイェーリングの言葉くらい紹介するべきであろう。

官邸前のデモはいわばマジョリティの「空気」をうまく読んだ、適度にぬるいデモになっている。ぬるいデモだからこそ日本社会でうまく機能しているのだ。逆に、日本では暴動化のリスクをおかさない、ぬるいデモでなければ、政治的決定を覆す状況を作れない。

この点で「暴徒化のリスクをともなった行動でなければ、政治的な力を持ち得ないし、原発再稼動も止められない」と発言するジャーナリストや政治学者は旧来のデモに対するイメージに呪縛されているだけで、官邸前のデモの本質的な新しさが見えていない。日本で暴動化のリスクをおかすようなデモを含む政治活動を行えば、普通の日本人は公権力がそれらの団体を抑えこむことを大歓迎する。かつ、万が一、自分の参加しているデモが暴動化すれば、参加者は間違いなくそのデモから逃げ出すだろう。つまり、暴動化のリスクをおかすような行動をとれば、そもそも日本の政治的決定のプロセスそのものから排除されてしまうのだ。非暴力的な、ぬるいデモであるからこそ、選挙という民主的手続きと完全に両立する。従って、エジプトの政治学者の名を借りて、官邸前のデモを60年安保当時のデモと比較してみせるコラム氏の手法は姑息であるばかりでなく、日本の政治的文脈をまったく読み間違えていることになる。(この程度の認識では、現代日本の政治を語る資格などない。)

(2) その結果、「公共の場で行なうデモという手法」という紋きり型の言葉を無自覚に使って、何らの疑問も感じなくなっている。デモは公共の場ではなく、カラオケボックスでやるべきだとでも言いたいのであろうか。地方新聞といえども、数十万人の目に触れる可能性があるのだ。ここまで無内容なコラムを書ける筆者は、一体どんな価値判断の座標軸を持っている人物なのであろうか。

(3) 次を読むと「脱原発の主張に賛否はあるだろうが」ときた。コラムの面白さは、一言で言えば、主観を生き生きと語るところにある。自らの主観が普遍的な価値を獲得することを願って、生き生きとした価値判断の尺度を失わないように勉めることこそが、魅力的なコラムを書くのに必要な資質である。つまり、周囲の空気を読んだ挙句の無難な評論家風のコラムなど誰の心にも響かないのだ。ちなみに私は原発に関しては、即刻全面的な廃炉こそが、最も理性的で倫理にも経済合理性にも適うものだと考えている。私たちの命とこの国の未来がかかっている問題に、コラム氏のような中立を装ったあいまいな立場はないのである。

(4) 最後に、コラム氏は、官邸前のデモを「政治的パワーを持たない民衆のデモ」と言っているが、政治的パワーを持たない民衆のデモの代表になぜ総理が面会せざるを得なかったのか。理由は(1)に書いた。この部分は「政治的パワー」ではなく「威力を用いない民衆のデモ」と表現しなければならない。