未来塾通信14


教育再生会議という茶番劇 ー 考えることの難しさについて ー

■ つい最近、たまたま教育問題を論じるテレビ番組を見ていたら、朝日新聞の編集委員と自民党(民主党も大同小異だが)の政治家が、現在の教育の問題点を「いじめ」「学力低下」「格差」「ゆとり教育」という言葉をキーワードにして論じていた。

彼らの議論と分析は、一見するといかにも客観的で中立のようだが、すでに自分達の思い込みによる価値判断が下されていて、そのレベルの低さに私は心底うんざりした。テレビを消そうとしたとき、くだんの政治家が「慶応や東大の医学部に入るような優秀な人間がオウム真理教に入ってサリンを撒いたでしょう。頭はいいかもしれないが、心が育っていない。実はこういうところが日本の教育の一番の問題点だと思うのですよ。こういう人間を出さない教育システムにしなければならない」と発言した。

なるほど。この人は人間の魂なり思想なりが、いかに偶然に左右されて出来上がったものなのか、全く想像力が及ばないらしい。「こういう人間を出さない教育システム」を作ることがそもそも可能なのか。たかが教育にそんな大それたことができるのか。人間が全く見えていないし、自分の理解力のなさと無神経さをさらしているだけではないか。彼は、庶民(つまりは選挙民)の典型的な考えや物言いを無意識のうちに内面化していて、それに媚びる発言しかできなくなっているのだ。政治家のレベルは大衆のレベルを超えることができないとは、けだし名言である。

 今、私の手元に『さよなら、サイレント・ネイビー 地下鉄に乗った同級生』(集英社)という本がある。地下鉄サリン事件の実行犯である豊田亨被告と東大の物理学科大学院時代に友人であった伊東乾が書いたノンフィクションだ。この本の最終章「第九章 手紙 さよならサイレント・ネイビー」で伊東は次のように書いている。「地下鉄に乗った同級生同士の、豊田と私を分けたものはなんなのか?初めはほんの髪の毛ほどの差もなかった。ほとんど偶然のような小さな分岐点が、次第に大きく私たちの生活を分けてしまった。いま、私たちは拘置所接見室の強化アクリル板で隔てられている。どうしても超えられない、薄く透明な樹脂によって。(中略)小さな分岐点がポイントを逆に切り替えていたら、二人の立場は逆だったろう。そして、いまもそのまま、小さな分岐点が私たちの社会に根深く残っている。豊田は私で、私は豊田だ。」

伊東のこのモノローグは、私の心に素直に入ってくる。伊東は豊田を弁護しているわけでは決してない。人間という不条理な存在が、偶然にもてあそばれて異郷へ迷い込み、殺人行為にまで及んでしまった過程を誠実にたどろうとしているだけだ。「なぜそんなことをしてしまったのだ、お前が!」という伊東の叫びが聞こえてくる。そして今、伊東のこの悲痛な叫びが私たちの社会のいたるところで叫ばれている。この事件を教育システムのせいにする発言が、いかに鈍感で浅薄であることか!

 しかし、教育の世界では上記の政治家レベルの発言が堂々とまかり通っている。教育という営みは結果がすぐに出ない。そこには一種の「時間的余裕」がある。だから、誇大妄想的な理想を吹くことも出来るし、ある理念にしたがって、どんなに現実離れした認識や判断であっても堂々と開陳できる。実際にはかなりひどい教育実践でも「私の実践によってこんなに生徒の目が輝いた」と自ら信じ込み、宣伝吹聴することもできる。

子どもは別に「心から学びたい」などと思ってもいないのに「すべての子どもは学びたがっている」などと、現実に対する自己欺瞞を平気で決め込むこともできる。そういえば、ある地方の小学校教師が、自分の教育実践の素晴らしさは、教え子達の大学入試合格率が示しているとして、華々しく教育界にデビューしたこともあったっけ。思春期の子ども達と向き合う中学や高校教師たちの大変さを多少なりとも想像できる人間なら、こんなバカげた「教育界デビュー」など絶対に出来ないはずだ。百マス計算どころの話ではないのだ。

こうして、教育という分野に伴う無責任と曖昧さをかっこうの土壌として、過剰な思い込みや手前勝手な理想論がバクテリアのようにはびこるのである。公教育を取り巻くこうしたキレイゴト的な性格に親たちは嫌気がさし、とっくに白けた視線を向けている。「市場原理」と「競争」にさらされ、「顧客満足度」を重視した、「結果がすぐ出る」塾業界が熱い視線を向けられるのも無理はない。少子化でなりふりかまわぬ誇大宣伝をし、再編の波が押し寄せている塾業界の怪しい実態を知れば、「公教育の崩壊」などと叫んでいる暇はないはずなのだが。

 話を元にもどそう。安倍内閣の肝いりで発足した教育再生会議のメンバーの顔ぶれを見たとき、私は深いため息をつかざるを得なかった。会議に期待していたからではなく、彼らがどんな基準で選ばれたかがわかったからだ。案の定と言うべきか、座長をつとめるノーベル賞学者の野依良治氏が、塾の廃止を強く主張していたことが明らかになった。「塾はできない子が行くためには必要だが、普通以上の子供は塾禁止にすべきだ。公教育を再生させる代わりに塾は禁止とするべきだ。昔できたことがなぜ今できないのか。我々は塾に行かずにやってきた。塾の商業政策に乗っているのではないか」と訴えたそうだ。

やれやれ。ここまでレベルが低いとつっこみを入れる気にもならない。でも、気の利いた小学生になったつもりでやってみよう。野依先生の言う「できない子、普通以上の子」はどうやって区別するのですか?その区別は学校がするのですか、それとも塾がするのですか?あるいは子ども本人にさせるのですか?難問ばかりを解かせて「できる子」を「できない子」にするくらい簡単ではありませんか?要するに、できる子、できない子の区別は、ある時点のある形式のテストで判定されるだけの実に曖昧なものではありませんか?人がやってる商売をそんなに簡単に強制的に廃止したりできるのですか?バカバカしくなったのでやめよう。

私が塾教師だから野依氏の発言を批判しているのではない。塾を禁止すれば公教育が再生されると考える、現実無視の不毛な理念主義が懲りもせず出てきたことにあきれかえっているからだ。それは「ゆとり教育」の失敗で証明されたのではなかったのか。塾業界は少子化でサバイバル競争に明け暮れている。学校の成績を上げるために時給で雇ったアルバイト講師を使いまわして利潤を上げているだけの塾や、入試の合格者数を水増しして急場をしのいでいる塾は、公教育が整備され、人々の職業観が変わるにつれて淘汰されるだろう。あえて禁止する必要など全くないのだ。

 現在の日本には、是非はともかく、塾や予備校をはじめとした多くの民間教育機関が存在する。成熟した市民社会では、多様な機能が互いに影響を及ぼしあうので、ある限られた領域である理念を生かそうと考えて行った改革が、その外側の領域との関連で、かえって逆効果を生み出しかねない。公教育を再生したければ、公教育の外側との関係をどうするのかといった問題は避けて通れないはずである。しかし、前述の野依座長の発言を見る限り、こういった最低限の共通認識すら持ち合わせていないようだ。理想主義的な理念を声高に叫ぶだけで、正確な現状認識を決定的に欠いていた「ゆとり教育」の反動となって、「再生」の中身は、また新たなきしみを生みだすだけだろう。

 会議のメンバーは自分達が演じている茶番劇に気付きもせずに、ある者は教育にロマンをと叫び、ある者は「市場」「選択」「競争」「消費者」「顧客満足度」といった経済用語を連発し、市場での選択にゆだねれば、競争を通じて教育は改善されると信じ込む。彼らは一体何を協議し、何を再生させようとしているのだろうか。少し手を入れればまだ十分に住める住宅を、何の見通しもなく「このままだと崩壊するのは明らかだ」というマスコミの報道に扇動されて、でたらめなリフォームをしようとしているだけではないか。かくして、完成した住宅はグロテスクで誰も住む気にならず、無残な姿をさらすことになる。教育再生会議という茶番劇の幕はまだ切って落とされたばかりである。