未来塾通信 3


ネットの中で増殖する暗い欲望または少年少女の残虐性について

■ はじめに

6月のある夜、高校生の授業が終わった後、消灯して戸締りをしながら去年のクラスのことを思い出し、しばし感慨に浸っていました。外に出て夜風に当たろうと思い、戸締りを中断して庭に出ました。大気中に多少湿気があるものの、梅雨時とは思えないほどひんやりとした空気が流れています。「先生、橋のところにホタルがいっぱいいます!」といって駆け込んできたOさんの弾んだ声を思い出しました。そうか、ホタルの季節なのか!塾の前を流れる川に沿って80メートルほど歩くと、上流と下流に一本ずつ橋が架かっています。生徒達が塾に来る途中に通るはずの下流の橋に向かって歩きました。時折、車のヘッドライトが周囲を明るく照らしたかと思うと、あっという間に通り過ぎていきます。この騒音と明るさではホタルは棲息できないだろうと心配になります。目的の橋に着きましたが、ホタルは見えません。あきらめて引き返そうとしたとき、視界の隅で何かが光ったような気がしたのです。立ち止まってその方向をじっと見ていると、小さな明かりが不定形に揺れています。それにしても、なんと頼りないかぼそい光でしょう。はかない命の一瞬の明滅。足元から小さな光が糸を引くようにスーッと昇ってきて、肩の辺りで消えました。よほど目を凝らしていなければ、見逃してしまいます。九州には小城(おぎ)をはじめとしてホタルの名所が何箇所かあります。娘も学生時代に、この季節になると小城にホタルを見に出かけたそうです。若い恋人たちが多かったと聞きました。ホタルのはかない光と、恋人たちのお互いを思う恋心。その移ろいやすさを一瞬でも永遠のものにしようと、彼らはホタルに引き寄せられるのでしょう。移ろいやすいものどうしの本能的な牽引、そんなことを想いました。

■ 娘を殺された父親の慟哭が聞こえる

長崎の少女殺傷事件をニュースで知って、私は被害者の父親の心情を思いました。事件当日の朝、いつものように言葉を交わし、元気に出て行った娘が数時間後には変わり果てた姿となって目の前にいる。娘の将来も、自分の生きる希望も一瞬にして奪われてしまった。自分はともかく、娘にはもっと生きてほしかった。笑ったり、泣いたり、恋をして、幸せな家庭を築いてもらいたかった。人間として生まれた以上、喜びも悲しみも、ありとあらゆる感情を味わわせてやりたかった。「お父さん、私、生きていてよかった!」と叫ばせてやりたかった。それができない。この無念さと怒りをどう処理すればいいのか。この事実をいったいどうやって受け止めればいいのか。娘の死を前にして、すべての現実が色あせ、意味を失い、遠ざかっていく。

生きている以上、人は働いて生活費を稼がなければなりません。それは社会に参加し、人とのつながりを持つということです。その過程で、理不尽な目に会うことは一度や二度ではありません。幸運な出会いがあれば、自分の適性を伸ばすことができたり、努力を他人から評価され自分の存在意義を確認できたりもします。

しかし、たとえそうでなくても、とにかく働かなければと半ば無意識のうちに考え、職場の複雑な人間関係の中で自分を見失わないように努める。多くの大人はそれが当たり前だと思って受けとめ、感情的な波立ちを抑えながら踏ん張っているのではないでしょうか。

しかし、いったい何のために?人間が生きている理由を改めて考えようと立ち止まると、必ず取り逃がしてしまう真実があります。それは言葉ではっきりと指し示すことはできないけれど、ある手ごたえとして存在している。それがくっきりとした輪郭をもって姿を現すのは、何よりも愛する人を失った時ではないでしょうか。その時になって始めて、人は何のために生きていたのかを、慟哭とともに痛切に悟るのです。

どんな社会状況や時代状況の中にあっても、侵してはならない守り抜くべき人間的な領域があります。人は実際、愛すべき人や家族を持っていないとき、「自分はいったい何のために生きているのか」という問いを発しても意味を成さないのではないでしょうか。マスコミが例によってこの事件を大々的に報道している間、私はただただこの父親の無念さを想い、慟哭を聞く思いがしていたのです。

■ ネットの中で増殖する暗い欲望または少年少女の残虐性について

塾で教えていて、ここ数年、生徒の中にある変化が生じているのを感じる。個人差があるのを承知で言えば、集団的秩序に適応することと引き換えに、自我が他人と接触することによって傷つくのを避けるためにパーソナルな城壁を築き、その中に安住しているといったタイプの子どもが増えてきたように思う。城壁の中には、自分の興味や好き嫌いだけを基準にして集められたアイテムがそろっていて、それを他人から批判されることを極端に嫌うといった様子なのだ。自分だけの閉ざされた安全な世界を確保しておいて、仲の良い友達とはケータイで情報をやりとりする。

要するに、社会へ通じる回路を自ら遮断して、かろうじて<不確かな生>を守ろうとしているように見える。この城壁の中で培養されたエゴイズムは、勉強ができる子供にとっては、なんでわざわざわかっていることを聞かされなければならないのかという自己中心的な、しかしある面ではもっともな主張となって、彼らをいらだたせる。勉強が苦手な子供にとっては、できない自分と向き合うことを避けようとして、単純な計算の誤りを認めようとしなかったり、指名されても答えないといった行動になって現れる。学校でならともかく、わずか10人前後の塾の中でさえそうなのだ。

私は8年ほど前、ある雑誌に「現在の学校は文化や知の伝達のための場所というよりも、生徒にとって<生活する場所>になっている。<生活>とは、教師対生徒の垂直的な関係が崩れた後の人間対人間の関係であり、愛憎が混在し、疲労ばかりがたまる時間の流れのことだ。言うなれば、泥沼の日々で、ちっとも冴えず、生徒は時間をやり過ごすためだけにそこにいる。ただの間であったはずの休憩時間が授業を侵食し、生徒は教師の話をまったく聞かないか、聞いているふりをするのが常態になる。身体は学校の内部にあっても、意識は学校を超えてなにやらきらびやかな禁断のにおいのする消費社会へ流れ出している。要するに、学校は生徒の興味や関心を引きつけて緊張を持続させるだけの力をとうの昔になくしてしまったのだ?」と書いた。

それから状況は変化したのだろうか。時代状況を正確に把握することもせずに打ち出された「ゆとり教育」路線は、「百マス計算」や「脳を活性化させる計算・音読ドリル」といった、まともな大人であれば赤面するほどの単純であっけらかんとした、売らんかなの商品を生み出しただけで幕を閉じようとしている。その間、子どもたちは豊かさとむなしさ、自由と手ごたえのなさ、気楽さと孤独感が両立する社会に、ケータイ電話とパソコンを渡されて放置されたのだ。一方、大人はといえば、都市化社会の中で他人の関心領域にはお互いに介入しないことをマナーとして洗練させ、個人主義的な相互不干渉を楽しんでさえいる。

そういった状況の中で、自分を個として確認すること自体をテーマとして生きる思春期の子どもたちにとって、秘密の地下通路で言葉をやりとりできる情報社会のツールはどんな意味を持つのだろうか。

昔なら大人社会に歯向かって、さまざまな「悪」を実行することが自分の存在を際立たせる手っ取り早い方法だった。中学生になったばかりの頃、私は地域の悪ガキ集団に属していて、共同して「悪」を実行することで自分が認められていく充実感を感じたものだ。今になって思えばたわいのない「悪」だったが、自分を個として認めてもらうためには必要な通過儀礼だったのかもしれないと思う。

私たちの集団が犯した「悪」は、大人が施した汚染された教育の結果などでは断じてなく、自分達の掟に基づいて、確信犯的に犯したものがほとんどだった。自分の中に眠っている残虐性を放流する回路として、あの悪ガキ集団があったことは幸運だったとさえ言える。現代のような高度に情報化された都市文明社会の中では、子どもたちは「悪」を犯すことによって自分を確認することを封印され、自分の中に眠っている残虐性を放出する回路は、ホラービデオや残酷な描写が繰り返し出てくる小説や映画、あるいはネットを除くと完全に封鎖されている。

長崎で起きた少女による同級生殺傷事件の加害者は、相手に託した信頼が裏切られたと感じパニックに陥る。自分を受け止めてくれる集団を持たない孤立した子どもたちの意識の中では、近づきすぎた者どうしの膠着した関係がかえって陰湿な仕返しとなってあらわれるものだ。

ネット上で悪口を言われて二人の関係が完全に破綻したと感じた少女は、恐怖と絶望のあまり信頼を裏切った相手を抹殺しようと考えるにいたる。ネット上に吐き出された小学生とは思えない残酷な言葉の数々。そういった言葉が意識下に眠っていた封印されたはずの残虐性に放出回路を与える。そして、「仮想現実」に自分の暗い欲望をはっきりと告げられ、どうしてもそれを現実化したくてたまらなくなったからこそ、こうした犯罪が行われたのだ。

ツールそのものが問題なのではない。ツールを使いこなす際のルールを教えればいいのだという意見があった。無邪気で甘い人間観だと思う。子どもたちに対する不適切な教育が、残虐性を生み出すのではない。残虐性は人間の持つ幻想力としてもともと存在しているのだ。それは理性を建前とする近代社会の成立とともに消滅したのではなく、個人的なものに変容し、孤立した個人の犯罪という隘路を通って現実化するのだ。ネットはまだ分別のついていない子どもたちの意識下をかき混ぜて、暗い欲望を浮上させる危険性を常に持っていると考えなければならない。

戦後の日本ほど、人の命が大切にされてきた時代はない。だからこそ、人間の奥深さ、不条理、不気味さ、おぞましさをわれわれは忘れてしまったのだ。今回のような事件が起こると必ずといっていいほど、「命の大切さ」を教えなければならないといった感想があちこちで聞かれる。「命の大切さ」などというものは存在しない。自分にとって「大切な人」がいるだけである。しかもその大切な人には序列がついている。自分にとってAという個人は何ものにも代えがたいほど大切だが、Bはそれほどでもなく、Cにいたってはほとんどどうでもいいと考えている。これが昔から変わらない人間の関係のあり方である。そういう風に感じている事実をしっかり自覚すること。そして、なぜそのように感じてしまうのかを自分に向かって問いかけること。人間に対する認識は、少なくともこういう過程を経てこそ深まるのではないだろうか。