未来塾通信 2


平凡で当たり前に生きようとする意志をくじくもの

 
個性的に生きることに比べれば、平凡で当たり前に生きることはとても難しい。自分で個性的に生きていると思うことほど滑稽なことはないし、個性的に生きようとすることほど徒労なことはない。

高校時代、同じクラスにUという男がいた。教科書に沿ったオーソドックスな勉強をほとんどやらず、授業中、教師の言うこともほとんど聞いていなかった。子供じみた悪ふざけをしてクラスの秩序を乱すこともなければ、教師に反抗的な態度をとるわけでもなかった。どちらかというとおとなしいほうで、むしろ大人びた印象だった。しかし、普通の高校生ならもっている教師に対する常識的な発想をどこか逸脱していて、そのことが教師の癇に障る雰囲気を持っていた。自分が教える立場になってみてよくわかるのだが、扱いにくい生徒だったと思う。

あるとき、数学の時間に前に出て問題を解くように言われた。公式を当てはめれば簡単に答えが出る問題を、彼は自分のやり方で黒板の全面を使ってほとんどその授業をつぶしてしまった。私は彼の解き方を目で追いながら、頭のいいやつだな、と感心したのだけれど、数学の教師は授業をつぶされたことと、彼が教科書どおりの解き方をしなかったことで頭に来たのだろう。皮肉たっぷりの言葉を彼に投げつけた。

またあるときは、遠足の帰りの整列で、きちんと並ばなかったために、担任にビンタと膝蹴りを食らった。担任は、「どうして言うことがきけないのか!」と、低く抑えた声で彼に詰め寄り、かなり興奮していた。私はなぜこれくらいのことで彼が体罰を受けなければならないのかわからなかったが、担任にはそれまでにかなり鬱積していたものがあったのだろう。クラスの中にこういう生徒は一人や二人必ずいるし、こういった生徒と向き合うことで生徒を了解する幅を広げることもできると思うのだけれど、きっと担任も疲れていたのだと思う。

もともと異能でもなんでもない教師たちが、毎日のルーティンワークの中で、ろくに言うことも聞かず、まともに躾もされていない生徒を相手に神経戦を戦っているのだから、言うことを聞かせるために最も安易な手段をとったとしても、単純に責める気にはなれない。もちろん、私が通っていた高校は、時代が時代だっただけに、教師の言うことを聞かない生徒は稀だったけれど。ただ、担任が彼のわき腹に蹴りを入れたときのにぶい音は、そばにいた私のわき腹にもメリ込み、彼の「うっ」とうめいた声が今でもはっきりと耳の底に残っている。

その後、彼はほとんど勉強らしい勉強もしないまま九大に合格したけれど、どこか他人事のようで、うれしそうなそぶりは見せなかった。それからしばらくして、大学を中退してアルバイトをしていると風の便りに聞いた。いかにも Uらしいと思った。私には、彼が大学の授業にきちっと出席し、単位を取って卒業し、一流企業に勤めている姿などおよそ想像できなかった。なぜこんなことを書くかというと、「個性的」という言葉を聞くと彼のことが思い出されるからだ。彼は自分のことを個性的に生きているとは思っていなかっただろうし、個性的に生きたいとも思っていなかったに違いない。ただ彼はあのように生きることしかできなかったのだと思う。

人間は生まれながらに十分個性的だ。生きるためにはかえってじゃまになるような独特の感性をもっていたり、他者との折り合いをうまくつけられなかったり、劣等感のとりこになっていたり、要するに、社会に適応するのに障害となる要素を大なり小なり抱えているものだ。だからこそ、個を超えた共同性に個人を順応させるシステムが必要とされる。

教育の根底には、こういった本質的な要請があることを忘れてはならないと思う。子供たちは学校という画一性、共同性の海に投げ込まれ、共通の文化的規範を身につけていく過程で、自分の力量や偏差した位置を肯定的にあるいは否定的に見定めていく。そして、大部分の子供たちは「凡庸さ」という島に泳ぎ着く。このこと自体を否定的にとらえる必要はないと思う。もともと公教育が人間の育成に関われるのは、人間の共通性に関する部分に限られているのだから。「個性」という言葉にまどわされて、子供たちに溺死する危険をあえて冒させる必要があるのだろうか。

個性的であるということは、純粋な資質としてみた場合、それほど手放しで喜ぶべきことではないと思う。それは「逸脱」であり、「まともに生きられない」ことであり、「病気」に近いものを含んでいる場合すら多い。資質として「人とちがっている」ことは、良いほうにはたらけば、世間から賞賛される社会的価値を生み出す可能性があるが、悪いほうにはたらけば、孤独で自閉的な人生や、反社会的な傾向を生み出す素地にもなりうる。

本当に価値のある個性的な仕事とは、既存の社会の中に安住の地を見出すことができず、自分が逸脱しているという宿命をいやおうなく自覚することから出発して、その逸脱の距離を、砂をかむような孤独な努力によって埋めていこうとする意志的なプロセスなのである。時折やってくる創造の喜びの間には、存在の無意味さとたたかわなければならない孤独で絶望的な日々が横たわっている。いわば、それは世間と隔絶した場所から、「まともさ」の中心に向かって「橋」を架けようとする試みなのだ。

個性的な仕事を単純にうらやむ人は、こういった内的なからくりについて何も知らない。個性的であることは、それ自体としては、幸福であることを少しも保証しない。優れた芸術創造の楽屋裏をのぞけば、決まって、人知れぬ孤独や無理解や自己喪失の不安、愛する人との関係の破綻に呻吟している人間を発見できる。彼らの仕事は人間の可能性の極限を指し示すことによって、私に勇気を与えてくれはするが、同時に「凡庸」であることの幸せを感じさせてもくれる。

しかし、個性的に生きることが、何より価値があるように強調する現代の風潮は、人々の中に「かっこいい生き方」へのあこがれを植えつけ、強迫神経的にそこへ駆り立てる。まるで個性的でない人生は生きるに値しないとでも言うように。自分が当たり前の存在であり、凡庸だと認めることが生きる自信につながらず、かえって存在の根拠を失うように感じさせられているので、人々は自分自身の生き方に対して、たえず「個性的」という呪文をかけていないといたたまれない。


今日のマスメディア、とくにテレビやおしゃれな月刊誌などでは、有名人、タレント、一線で活躍している人々を好んで取り上げ、その「個性的」である部分を発掘し、参考にすべき生き方のモデルとして強調する。こういったメディアを支えている編集者やプロデューサー、カメラマン、ライターの手にかかると、たいした個性の持ち主ではない者や、一時的にもてはやされているだけの単なるお調子者も、いかにもきらびやかで魅惑的な輝きを放っているように見えてくる。「あの人は個性的ね」というのが、現代では最高のほめことばになっている。

だからこそ、そういう風潮に距離を置き、逆に平凡で当たり前に生きることの中に価値を見出すことはとても難しい。マスメディアがあわただしく次から次へと繰り出す宣伝文句に洗脳されずに、常に一人称で語り、等身大の生き方をするためには何をすればいいのか。私は、以下の三つができていれば十分だと思う。

(1) 経済的に自立できていること。

(2) 自分の働きが、ささやかであっても、周囲の人々に何らかの好ましい影響をもたらしていると実感できること。

(3) 家族を含めて、身近な人々とうまくやっていけること。

以上の三つは、実は普通の人が当たり前にやっていることで、私が偉そうに言うことではない。わざわざそんなことを言うのは、お前の中に非凡であることへのこだわりがあるのだろうと、とられるかもしれない。ただ50歳を過ぎて、こんなことを言うのは、自分がなかなか大人になれなかったということと、当たり前に生きることのほうが、個性的に生きることよりも思想的にはるかに深い含蓄が秘められていて、そのことに気づいた以上、もはや「個性」をやみくもに称揚などできなくなったからだ。

今日も夕暮れになると、元気よく生徒達がやってくる。人生の初期の段階で、その後の紆余曲折を予感させる個性的な萌芽をすでに持っている子供もいる。人と違った生き方をせざるを得ないつらさや孤独に思いをめぐらしながら、なんとかうまく平凡な生き方の中に着地点を見出してほしいと願い、「はい、では勉強を始めます」と、生徒と自分自身に言い聞かせて、いつものように授業が始まる。